別邸仙寿庵の歴史

創業のあゆみ 谷川の渓谷沿いに佇む、静かなプライベート空間を要する宿、仙寿庵。
その創業のあゆみを記しました。
当庵にご興味を持ってくださった求職中の方に、ほんの少しでも当社を知って頂くきっかけになれば幸いです。

採用

はじめに

会長お写真 太宰治

1938年に書かれた太宰治の名作「姥捨」の一節。太宰が実際に何度も訪れていたのが「旅館たにがわ」の前身となる川久保屋(後の谷川館)であった。この土地の風光明媚な山や野や川の景色を太宰が気に入っていたことは作中での描写が物語っている。
また、戦前日本を代表する歌人である若山牧水、ノーベル文学賞受賞作家の川端康成らも谷川温泉を訪れ、この地への想い入れを作品に落とし込んだり、川端が太宰にそうしたように近しい人にすすめたりしていた。

当庵の歴史を振り返るにあたり、「別邸仙寿庵」並びに「旅館たにがわ」、この地で二つの旅館の創業を手掛けた久保富雄、この人物の半生を追いかけてみたい。

太宰が39歳にしてこの世を去ったのは1948年のこと、この少し前1946年に久保富雄(現:株式会社旅館たにがわ代表取締役会長)は群馬県高崎で生を受けた。

谷川館の事業継承

History01

温泉掘削のボーリング工事会社を営んでいた父が目を付けたのが水上で、自らも此処で一旗揚げようとはじめたのが『谷川館』でした。
1952年のこと。
谷川の渓流沿いに建てられた古びた木造16室の小さな旅館でした。

久保富雄

三人兄弟の長男として生まれ、家業を継ぐことは子供ながらに幼い時点から自覚をしていた。借金取りが月末に集金に来ると、父は居留守、母が丁重に謝っている姿が忘れられず、又その後にお客様が入ってくると、ニコニコとして、何もなかったことのように、お客様に接している光景は子供ながら商売は非常に大変で難しいと感じ、何事があっても自分自身を見失うことなく、動揺しない強い精神力を身につけなければいけないと思った。
両親は大学に進学する様に言ってくれていた。進学する時に、学生生活4年間で「後継ぎなので、旅館の経営者になるべく、勉強をするから、又全国に友だちを作ってくるから、落第はしないから」と、自分の思いを伝えた事、家計が大変な中、学費を仕送りしてくれた、お金の有難みと、無事に卒業出来たことに深く感謝している。バイトをして、お金を貯め一人旅、1年生の時は四国一周、2年生の時は沖縄一周、3年生の時はタイ、カンボジア、香港、台湾を40日間旅をした。4年間の学生生活で沢山の事を学んだ。
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水上の地に新幹線や高速道路が開通し、首都圏の奥座敷として隆盛を極める時代から遡ること30年、富雄が6歳の時のこと。
その後、時代は高度経済成長期に突入し、上野から水上へ走る上越線急行列車の運転開始も相まって、水上温泉街にかつてない活気がもたらされることとなる。家業の旅館経営も軌道に乗りつつあった。

しかし、富雄が都内での大学生活を謳歌していたある時に父が急逝。大学卒業と同時に水上へ戻り家業を継ぎ、弱冠22歳の社長として旅館経営の陣頭指揮を執ることとなる。

当時の水上温泉には35軒ほどの旅館があったが、売上や事業規模は下から数えて二番か三番目。それを上から十番以内に押し上げることが僕に課された使命であると思っていました。
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志を高く掲げ意欲に燃えていた富雄だが、面積も狭く景色が良いとは決して言えない当時の旅館を事業拡大させるための障壁は少なくなかった。新しい旅館を建設することも視野に入れつつ、谷川館の切り盛りに没頭した。

旅館たにがわ新館建設への再挑戦

家業を継いで10年ほどが経過した頃、新館建設に着手。実は、この数年前にも一度建設計画を進めたことがあったが銀行融資の取りまとめに失敗し、少なくない費用を授業料として支払っていた。今回の計画推進は一世一代の大勝負であり、富雄としては満を持しての再挑戦でもあった。

History02

前回の建設計画には利己主義で臨んだ結果、失敗しました。
そりゃそうですよ、自分だけが得しようという気持ちでもってより安くよいものをつくろうとしたわけですから。
その教訓を活かし、今度はお金をかけてでもよいものをじっくりつくろうと考え、設計・建築・コンサルタントから銀行まで計画に携わる関係者は一流と目されるメンバーを揃えました。
携わった皆でよくなろう、という気持ちでした。

久保富雄

こうして完成したのが現在の「旅館たにがわ」である。創業は1981年、富雄はこの時35歳。

旅館たにがわについて

当時、依頼をしていたコンサルタントがはじき出した「旅館たにがわ」創業時の年間売上目標は新館建設前の五倍となるほどの金額であった。富雄は億単位の数字が書かれた書類を目にした時に今でも覚えているほどの身震いをしたという。二倍から三倍程度であれば何をどうすればよいか粗方の算段がつくが、五倍となると未知の領域であった。当時、新築での売上五倍を達成したことのある旅館の前例は国内でも一軒のみ。宮城県は秋保温泉にある老舗の大型旅館で、「旅館たにがわ」とは規模も知名度も異なる。しかし、富雄はこの旅館の視察を行った上で建設計画の推進を決断する。
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よそで出来たのだから、自分にできない道理はない。

現在も久保富雄を語る上で欠かすことのできない持ち前の積極思考をここでも発揮。創業当初、旅館運営のオペレーションがままならないうちに夏の繁忙期を迎え、多忙を極めた社員が続々と辞めていってしまう事態に直面した。体がまだ動く社員の家には毎朝出向き、声をかけ鼓舞した。また、社長自身が倒れてはいけないと、妻である女将と毎日ジョギングを行い、体を鍛え、何とかこの難局を乗り切る。結果、創業三年目に売上五倍という当初の目標を達成することとなる。

余談であるが、莫大な金額を扱うことによる心配や恐怖は、金額を書いた紙をリビングや寝室・トイレの壁や天井に貼り、それを毎日眺めることで克服したという。

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不思議なもので、毎日見てるとその数字に慣れるんですよね。何億円という数字でも身近に思えてくるんです。人間の感覚はほんと不思議ですよ。
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売上五倍を達成した
旅館経営社の信念

かつて富雄が言っていたように、この計画に携わった関係者皆がよくなった。設計には一部上場の建設会社を指名。当時にして先進的な建築が注目を集め、その後の全国各地の旅館建築で引く手数多となった。経営コンサルタントの会社は35歳という若いオーナーに売上五倍を達成させたことでコンサル業界にて一目置かれるようになる。融資を担当した都市銀行に至っては、前出の建設会社とこの時の取引がきっかけで、当該建設会社が北関東で扱う物件すべてとなる数百億もの融資を一手に引き受けることとなる。当時の担当支店長はその後異例の出世を遂げた。
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色々な方に無理だ無理だと言われましたけど、自信はありました。お客様を大事にすればお客様は必ずまた来てくれる。当たり前のことのようだけど、とにかくお客様を大事にしたいと考えていました。旅館はオーナーのものであっては駄目なんです、お客様のものです。

創業から7年目に、これまで18室であった客室数を現在と同じ35室へ増築。またも数億円の投資を実行。借入に伴う返済の負荷が大きくかかることになるが、勝算はあった。お客様ファーストを徹底することで見えてくる新しいサービスの数々。ロビーにて早朝だけ囲炉裏にて舞茸の味噌汁のサービス、その日に山から採ってきた野ばらを客室や館内へ飾る、サイズ違いのスリッパを用意する、お客様の靴下を洗濯するなどちょっとした創意工夫でお客様の評価と満足度を高いレベルで得ることができる。お金をかけられないならお金をかけずとも心を満たすサービスを行えばよいとの信念が富雄にはあった。

リピートでやってくる多くのお客様に支えられ、テレビや雑誌での露出が増えたことに加え好景気の追い風もあり経営は順調であった。当時は、ホテル旅館業界で「若い旅館経営者」と呼ばれることも多く、地元の旅館組合をはじめ全国有数の旅館を束ねる組織でも要職を務めるまでになった。

仙寿庵別邸仙寿庵の営業開始

1990年代の初頭、バブルが崩壊。消費は底まで落ち込み、旅館業界のダメージは甚大、もちろん「旅館たにがわ」も例外ではなかった。世の中を覆うすべての空気が暗く重い中、富雄は誰もが耳を疑う計画を実行に移す。

谷川地区でマンションを建てようとしていた大手建設会社が倒産。その土地の購入を当該関係者から相談された際に、富雄は二つ返事で「買うよ」と返答。

History02

こんな時代だからこそ、お客様にもっと喜ばれる旅館をつくろう』そんなふうに考えていました。 もう駄目だと下を向いていても状況はどうせ改善しないのだからと。

久保富雄

別邸仙寿庵について

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新館建設にあたり数十億という莫大な資金が新たに必要となるが、採算は度外視、借金は末代で支払えばいい。今はとにかく一人でも多くのお客様に喜んでいただきたい、その一心であったという。

1997年。香港が中国に返還され、山一証券が自主廃業となったその年、当庵「別邸仙寿庵」が営業を開始する。

この年に新築オープンした旅館は全国で当庵のみであったと言われている。日本社会がバブル崩壊のどん底から這い上がるためには、喜びこそが必要であると考えていた富雄は、お客様の喜びを得るためになら尽くせるだけの贅を尽くそうと決めていた。

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新館建設時のコンセプトはただ一つ。

来て良かったと思える旅館をつくること。

設計は世界的な建築家である羽深隆雄氏に依頼。日本古来の伝統を素材に映し、旅の余韻と風情が際立つ羽深氏の建築に深い感銘を受けていた富雄は、コンサルタントを介して設計を依頼する(コンサルタントが建築家を連れてくる)ことが主流であった当時にあって、一本釣りで設計の依頼を直接行う。これまで培ってきた自らの経験と勘を信じ、これからの旅館の一つのモデルになるような旅館をつくりたいと考えていた。

仕上材は土壁・木・石・和紙といった日本の伝統的な素材を多用し、日本の宿のおもてなし文化そのものを体現したいと羽深氏に伝えたが、意見や方針が対立することも多くあり、折れるべきところは折れ、譲れないところは譲らずと妥協なき計画推進を行った。その結果、完成した「別邸仙寿庵」が現在有るものであるが、栄えある建築学会の賞を受けることにもなった。

すべてのお客様に喜んでもらうためには旅館に表と裏があってはならないという富雄の考えに基づき、全室から谷川岳と谷川の源流を望むことができる設計とした。その上で全客室に露天風呂を設置。全室露天風呂付きは国内初であった。

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敷地内に源泉が三本あり、周辺に民家や建造物がまったくなく、仙人が住むような場所であることから『仙寿庵』と命名。心が安らぎ、快適な場所とするため磁場の調整を行った。古の時代から続く神社仏閣に見られるようなゼロ磁場に近づけるよう建物の下に貨車一台分の備長炭を埋設した。ロビーのソファに腰かけると不思議と疲れが一気に取れると話すお客様がたまにいらっしゃるというが、敏感な方はわかるようで炭を埋めたのは正に今のロビーの真下であるという。

谷川岳の頂上と天神平の方角から
“いい気”が流れてくるらしいです。
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と言うのは、建設時に風水や気功の専門家数人にこの場を見てもらったところ全員が同じことを述べたというのである。元々あった地の力もあるやも知れぬが、人の思いが波動となり“いい気”を引き込むということはないのだろうか。茫然たる推測の粋を出ない話で有るが、怒らない・挫けない・怯まないという積極思考と胆力を合わせ持つ富雄からはそう思わせるに足る魅力を感じる。

さいごに

太宰治が谷川温泉滞在中に執筆したとされる著作「創生記」。

会長お写真 太宰治

鬱々とした作品世界にあってもユーモアを携えた太宰らしい一節である。

別邸仙寿庵の創生記。それは、お客様の喜びのためにすべてを尽くし、半生を捧げた男の物語。命を失いかけた除雪時の事故でさえもユーモアを交えて明るく語る。現在に至るまで越えては現れる数多の壁を乗り越えてきた。困難から逃げずに立ち向かってきたからこそ得られた人間としての深さと幅。

会長の思い

全国の温泉地の大型旅館が減少し温泉地ごとに1,2軒残るだけです。温泉街が縮小変化してきている中で、個性ある小旅館が出てきています。色々な宿泊形態も生まれている。当館が生き残っていくのに必要なのは、3万坪の敷地の環境を生かして時代に合った、高級旅館にしていき、旅館たにがわは、温泉を生かし、手ごろな宿泊料でサービスの行き届いた宿造りだと思います。

世界に誇れる日本文化を収縮したオンリーワン旅館創りを、もっともっと磨いて世界の大勢のお客様に、宿泊していただきたい。

旅館の隅々まで把握し、毎日社員にまず声をかけ、顔を見て頑張っているか、やる気をなくしていないかを読み取り、個人個人に話を聞くようにしたり、修理についても、原因が何か、立ち合い、業者に聞くようにしています。熱い思いが何事をも克服し、望みが叶う。

今までに歩んできた過程を振り返って見ると「思いは必ず実現できる」と言う事を確信しましたので、疑わず手に入れていただきたい、自分の人生を豊かに、楽しく幸福の人生を築き上げてください。いろんなことを吸収して自分の一生をどう歩むのかを突き詰めてもらいたい。

これからの自分の一生をどう歩んだら悔いのない人生を歩めるか、どう生きるかハッキリ決めて強い信念で「自分に厳しく、他人に優しく」一つ一つ階段を上るように目標に向かって歩むこと。私心を捨てて、成功するには、成功のセオリーが幾通りかあり、失敗するには失敗のセオリーがあるのでそれに気づき理解出来るように、「物事を謙虚に、素直に、受け入れ、物事を平らに判断」をし、実行して行くこと。

経営理念

1 お客様、地域、業界にプラスの影響を与え、貢献する。

2 お客様にすばらしい旅の思い出を創ってさしあげるため、旅館たにがわが第二の我が家になるよう、家庭的なおもてなしを実践する。その為には常に自然体でお客様との接点を楽しむ。

3 社員に働くことの喜びを感じさせるような職場づくりを目指し、旅館業界のモデルとなれるよう経営の発展と向上を図る。

社員の心得として

1 すべてに研磨をかける。
2 自ら考え行動を起こし責任を持つ。
3 意識を高め惜しみなく自分の能力を高める。
4 他人の能力を引き出す。
5 笑顔を忘れず感謝して前向きに過ごす。

来て良かったと思える
旅館を
100年200年と続けて
いってほしい。

後進へ伝えたいと語る。

株式会社旅館たにがわ代表取締役会長 久保富雄

ここまでお読みいただきありがとうございました。
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